鯉城とも呼ばれる。カープのほか、その名を冠した会社や商品も多い。広島城を築いた毛利輝元没後400年を記念し命日に当たる4月27日、城の二の丸から南側の緑地帯に建立された輝元公銅像の除幕式が開かれた。広島の南北を貫く鯉城通りと東西をつなぐ城南通りが交わる堀端に立つ。台座も含めて約4㍍の高さ。その姿は築城の地と定めた広い島を指差す。天正17年(1589年)の頃、37歳の表情は決意と意欲を示し、りりしい。二葉山、牛田の見立山、己斐の松山(旭山神社)に登り、見渡す遠浅の海に浮かぶ江波島、吉島、仁保島、比治島などのうち、最も広い島を選んで広島と命名。ここに流通、経済の拠点を備える構想を描いていたという。やがて町を形づくり発展の礎となった。父隆元の急逝により、わずか11歳で毛利家14代当主に就く。祖父元就の死後、毛利両川と呼ばれる叔父の吉川元春、小早川隆景に補佐されて中国地方9カ国112万石を領した。だが、1600年の関ヶ原の戦いで敗軍となり、長州萩へ減封された。築城から約10年で広島を去る。山口県の萩城跡には輝元の座像がある。大阪城に豊臣秀吉、熊本城に加藤清正、仙台城には馬上に雄々しい伊達政宗の像がある。昨夏、輝元公銅像建立プロジェクトを立ち上げ、クラウドファンディングなどで資金調達に奔走した市民団体「広島城天守閣の木造復元を実現する会」の大橋啓一会長(ひろしま美術研究所校長)は、「私も含め、戦後生まれは8月6日の被爆を記憶に刻み、平和の尊さを学ぶが、それ以前の広島の歴史にやや関心が薄かったように思う。歴史を知り、郷土に誇りを持つことは大きな自信につながる。どこの国、地域だろうと生まれ育ったところの歴史を大切にしている。いまは国内外から広島に多くの観光客も訪れるようになり、郷土愛とともに歴史を語ってほしい」資金はクラウドファンディングと県内中心に69社と個人200人から目標の1000万円を大きく上回る約2500万円が集まった。残った支援金は広島城天守閣の木造復元へ向けた活動に役立てたいとし検討する。「都心部の再開発が進展し、広島城の周辺でもサッカースタジアムやゲートパークが整備された。都市機能の重層化とタイミングを合わせて広島が歩んだ歴史をひもとき、いまと重ね合わせながら時代を超えた街づくりの夢を描き、誇りを育んでもらいたい」輝元像の西側に位置する広島城三の丸の整備(市のパークPFI事業)に取り組む11社共同事業体「広島城アソシエイツ」代表法人の中国放送の宮迫良己社長は、「広島は築城から約350年後に被爆で焼け野原となり、その後輝かしい復興を果たした。そして戦国時代からの激動期を生き抜いてきた毛利家代々でつなぐ文化や郷土愛を教訓とする輝元公銅像をランドマークとし、永く後世へ伝えてもらいたい」3月末に開業した三の丸1期商業施設には武家茶道・上田宗箇流監修のSOKOカフェがオープンした。カジュアルな空間でお点前体験などを通じ、武家文化に触れることができる。来年には歴史館が開館する。広島城の歴史や近世の広島の歴史・文化をテーマにした新たな博物館施設になる。歴史や文化があるから人の暮らしがあり、新たな歴史を刻む価値がある。
担当記者:藤井